第五章:鼻の奥に咲く花
朝、いつもと同じ時間に目が覚めた。
けれど、どこか違っていた。
チノスケは、鼻の奥に“何か”がある気がしていた。
それは痛みでも、ムズムズでもなかった。
ただ、何かが咲きそうな気配だけが、そこにあった。
学校では、いつも通りの時間が流れていた。
先生の声も、友達の笑い声も、昼休みのチャイムも。
だけどチノスケの中には、誰にも見えない“花”が咲きかけていた。
彼は、誰にもそのことを話さなかった。
話した瞬間、その花がしおれてしまいそうだったから。
帰り道、またあの抽選機の前を通った。
今日は、赤い玉のことを思い出さなかった。
代わりに、鼻の奥がふっと温かくなった。
そこに、花びらのような気配が広がった。
家に帰って、ランドセルを置いた。
母の「おかえり」の声に、いつもより少しだけ大きな声で返事をした。
自分でも驚くくらい、自然にそうできた。
夜、布団に入って目を閉じる。
チノスケは、鼻の奥に咲いた“何か”を、そっと感じた。
それが花なのか、言葉なのか、涙なのか。
それはまだ、わからなかった。
でも、確かにそこにあった。
言えなかったこと、わからなかったこと。
全部が、静かに形を変えていた。
鼻の奥に、花が咲くように──。