第二章:ティッシュに宿る言霊
その日も、抽選機を回した。
赤は出なかった。けれどチノスケは、あの音を聞けただけで、少し落ち着いた気がした。
景品は、ポケットティッシュ。透明の袋に包まれた、よくある、ありふれたやつ。
ポケットに入れると、すこしだけふくらみが気になった。でも、なぜか捨てる気にはなれなかった。
家に帰って、ズボンのポケットから出したとき、そのティッシュの裏に、小さな文字が書かれているのに気がついた。
“しみない目薬、効きめは夜に。”
“夢のすきまに、そっと寄り添う。”
“気配、なおします。”
それはただの広告。誰が見ても、そう思うだろう。けれど、チノスケにはそう思えなかった。
その文は、「言葉」じゃなかった。“声”だった。
自分にしか聞こえないような、誰でもない誰かが、こっそり耳にささやいてきたような。
ティッシュの中に、人がいた。そんな気がした。
翌日になっても、チノスケはそのティッシュを捨てられなかった。
読み終えたはずのその広告文を、また読みたくなって、引き出しからそっと取り出す。
“しみない目薬、効きめは夜に。”
その一文だけで、目が、なんとなくじんとするような気がした。
“夢のすきまに、そっと寄り添う。”
そっと、ってどういうことだろう。すきまって、どこにあるんだろう。
文章は、もう読んでいるのではなく、聞いていた。
言葉の調子、リズム、空白。フォントの丸さ、インクのかすれ。ひとつひとつが、声のように響いた。
ティッシュの上に、言葉が「置かれている」のではなく、そこに「潜んでいる」気がした。
ふと、読み返すたびに、少しずつ違って聞こえる。まるでチノスケの体調や気分に合わせて、文が変化しているかのようだった。
その夜、チノスケは夢を見た。
どこか見覚えのある部屋だった。でも、少しだけ広くて、少しだけ静かすぎる。
足元には、無数のティッシュが落ちていた。くしゃくしゃでも、使われたわけでもない。どれも新品で、ただ、散らばっていた。
その中のひとつが、ふいにふくらんだ。まるで息を吸うように、ふわりとふくらみ、やがて音もなく、ひらかれた。
中から、文字が立ちのぼった。インクではなく、煙のような。読めるような、読めないような、でもたしかに「伝えよう」としてくる気配。
「おまえは、もう当たっている」
その文だけが、はっきりと浮かび上がった。
誰が書いたのか、誰の声だったのか、わからない。でもその言葉だけは、確かに、チノスケの胸の中に“届いた”。
彼は夢の中で、うなずいた。その意味も、なぜうなずいたのかも、わからなかった。ただ、そうしなければならない気がした。
目が覚めたとき、ポケットティッシュは机の上になかった。
探しても見つからなかった。母が片づけたのかもしれないし、もしかしたら、最初からそんなものは、なかったのかもしれない。
でも、声だけは残っていた。
「おまえは、もう当たっている。」
それが何を意味するのかは、まだ分からなかったけれど、どこか、鼻の奥の奥のあたりに、その文が“染みている”感覚だけが、残っていた。
少しだけ、満たされたような気がした。
書かれた言葉が、すこしだけ声に近づいていた気がした。
けれど最後にもう一度だけ、その紙を見た。
今まで読んだどのときより、
そこにある「緑」という文字だけが、目に残った。