第一章:はじめての抽選機
──意味があるかどうかは、回してから決めたらええ。
赤い抽選機は、今日も静かにそこにあった。
商店街の端、小さな青果店の軒先。
錆びた脚の下には段ボールくず、取っ手にはテープの巻き跡。
それでも機械は、昼下がりの光の中で、無言のまま構えている。
チノスケは、その前を何度も通っている。
けれど今日は、なぜか、足が止まった。
胸の奥に、名前のないざわつきがあった。
「回さなきゃいけない」――そんな感覚だけが、静かに騒いでいた。
ポケットの中で、100円玉を探る。
すぐに見つかるけれど、すぐには出せない。
汗ばんだ指先が、コインの輪郭をなぞる。
これを入れれば、今日が“はじまる”。
そう思える根拠はどこにもない。
けれど彼には、それが必要だった。
取っ手に手をかけた瞬間、音が消えた。
商店街のざわめきも、遠くの車の音も、
母の「先行くよ」という声も。
すべてが一歩だけ、遠ざかっていくような感覚。
その中で、ただ一つの音だけが響く。
カラカラカラ……
回る機械の音が、骨を伝って体の奥に届く。
コロン。
玉が落ちた。
赤だった。
景品は、文房具の詰め合わせ。
袋に入った定規と、無地の消しゴム。
けれどチノスケは、それには触れなかった。
欲しかったのは、“赤”という返事だった。
帰り道、風が少しやわらかく感じられた。
さっきまでむずむずしていた鼻の奥も、すこしだけ静かだった。
何がどう変わったわけでもないのに、
空気が少し、ましになった気がした。
このことを誰かに話すつもりはなかった。
話してしまえば、意味が崩れてしまう気がしたから。
だから彼は、すべてを鼻の奥にしまいこんだ。
感じたことを、言葉にする代わりに。
意味があるのか、ないのか。
それは、回してから決めたらいい。